小牧城考


1.はじめに

諏訪形から見た小牧山・小牧城址方面

 小牧山は諏訪形の人たちにとってもごく身近な山で、『諏訪形誌』の中にも何度か 出てきます。また、城下小学校の校歌にも「小牧山こだま返せ」と歌われています。

 ところで、この小牧山には「小牧城址」があり、小牧自治会の方々を中心にハイキ ングコースもよく整備されています。ここでは、「小牧城」を巡るウォーキングコー ス(一部はかなり険しい登山道)を歩きながら、「小牧城」とその周辺の古跡 (「中尾城」「下ノ小屋」)について見ていきたいと思います。

 なお、本稿の執筆に当たっては、令和3(2021)年小牧自治会長の宮島弘氏にご 協力をいただきました。ありがとうございました。

2.中尾城
 大正15(1926)年発刊の『小縣郡史』に以下のような記述があります。



 中尾城は上田市小牧區字なかおに古址あり。平地より一段高くしてつ剤二十七間、 南北十四間あり。東と西とは山深の水利を帯び、南は藪丈の岩壁にて、頗る要地たり。 里傳に岩下氏の城跡といふ。去ればにや天保年間幕臣岩下各彌といへるもの、其祖先 の地たるの縁を以って小牧を訪へることありきとす。

 宮坂武男の『信濃の山城と城館3 上田小県編』によると、「中尾城」は四箇牧神社 の南、小牧山「男坂」入り口付近にあった古城(館)のようです。『小縣郡史』には 「岩下氏の城」とあり、地域では「岩下氏が四箇牧神社に観請した」という言い伝え もあることから、岩下氏に関わる城館と推測することができます。岩下氏は千曲川を 挟んで小牧の対岸、現在の上田市岩下地区の、海野氏につながる豪族で、生島足島神 社の起請文の中にも名前が見られます。

 岩下氏の館があったとされる年代については「らんまる攻城戦記〜兵どもが夢の跡〜 (web版)」では「室町時代初期から中期」と推測していますが、現在のところはっ きりとした資料は見つかっていません。また、小牧城との関係についてもわかりません。


 ←「中尾城(館)」があったと思われる、「男坂」の入り口付近。


3.下ノ小屋
 この「中尾城」があったと推定される場所から沢(六句沢?)に入り、砂防堰堤の手前、 右岸(沢の上流側に向かって左手)の急坂を標高差で80mほど登る(やや難路)と、 人工的に手が加えられていると思われる、崖の上のちょっと平らな場所に出ます。ここは「下ノ小屋」 と呼ばれている場所で、石の祠が安置されています。この場所については伝承などは全 くないとのことですが、前述の「中尾城」と関係が考えられます。また、かなり視界が 開ける場所であることから、小牧城築城前の「狼煙場」または「見晴らし台」だったの か、などとも考えることもできるようですが、その実態は不明です。
「下ノ小屋」の石祠



4.小牧城
 「小牧城」は『長野県の中世城館跡 分布調査報告書(長野県教育委員会編)』には 「小田牧城とも呼ばれる」と記されています。また、『信州の城と古戦場(南原公平著・ 令文社刊)』でには「村上氏の出城か。またはに木曽義仲の要害」とされています。 「小牧城」は、本丸に相当する「下ノ城(したのじょう)」、「詰めの城(戦時の最終 拠点となる城)」とも「城の南側の守り」とも見ることができる「上ノ城(うえのじょう)」、 物見台的な「大手砦(または物見岩)」などから構成されていて、現在でも堀切や土塁の 跡をはっきりと見ることができます。

 小牧城について、大正11(1922)年発刊の『小縣郡史』には以下のように述べられています。

 小牧城は一に小田牧ともいふ。上田市小牧區小字城山にあり。北は千曲川に臨み、東西は何れも 渓谷に沿ひ、南は峯傳へに小牧山に連なり、直に須川部落に接し、依田村尾野山に至るべし。上の 城と称せられるるは山上にありて、本郭は東西五間、南北六間あり。本郭の南に更に小郭二階あり、 本郭より次第に高き地とす、最上部より稍降下し、これより南方傳ひに小牧山に連なる、里傳に物 見跡といふ。詰めの城なるべし。下の城と呼ばるるは、上ノ城より下る事約一丁余の處にありて、 本郭は東西五間、南北七間あり、其西邊と北邊とには土塁を損せる、按ずるに往昔は其四園に之あ りしか。北に堀切三條あり、西は直に渓谷に向ふ、西北斜に北方面に降れば泉あり、南は稍下りて 一郭あり、これより急峻、新たに覗き、釣瓶落とし九十九折坂と命名す。東に降る十五尺許にして 東西五間、南北五間の腰曲輪あり、更に東方に降る十五尺許にして東西四間、南北五間の腰曲輪あ り。其東南に馬繋ぎ場といへる削平地あり、これより澤に沿うて下る道あり(後略)


 また、昭和15(1940)年発刊の『上田市誌 下』には以下のように述べられています。

 此小牧城は天文17(注:1548)年上田原の戦の頃、大門峠を越えて依田窪に出て砂原峠を経 て、上田原方面に進出する、武田車の為には村上氏小懸の重鎮たる、戸石城に備ふる一要地たりしこ と、又此方面より尾野山を経て、依田窪に達する通路を扼する要地なるを思ふ時、源義仲の依田城に 據りし當時、其の固めとして一要害を築きしことも考えらるゝ所である。


 文章がちょっとわかりにくいのですが、源(木曾)義仲によって築かれ、戦国時代になると、武田信 玄が戸(砥)石城の村上氏(村上義清)に対抗するたの拠点として使っていた、と読めます。

 「下ノ城(本丸址)」には、大正5(1916)年に堀内正嗣を会長とする小牧青年会が、旧城下村 の各区や上田町神川村などの有志から寄付を集め、城下消防組の協力も得て、整備した公園があります。

 この公園を造るに当たり、小牧の片岡米太郎、宮島廣らはほぼ無償で土地を提供しました。

 この公園には立派な碑(小牧城祉記)が建てられています。当時、城郭建築研究の第一人者であった 大類伸博士(明治17(1884)年〜昭和50(1975)年)によるこの碑文には、次のような記 述があります。


 天文年間武田信玄信濃を經略せし時、村上氏と頻に此付近に戦ひ、小牧其他の要地に守兵を置きて、敵 の重鎭戸石城に對抗したりと云ふ。更に壽永の昔に遡れば、源義仲の兵を擧げて北國に向かふや〜


この碑文には「木曾(源)義仲が依田に本城を構え、周辺に支城を置いて、越後の城長茂と千曲河原で の戦いに臨んだ」ことや「戦国時代には信濃国に侵攻した武田信玄がこの城に兵を入れ、戸(砥)石城 の村上氏(村上義清)に対抗する拠点とした」という内容が刻まれています。

 なお、左の画像は大類伸博士から、博士の近縁者で、当時上田中学校(現長野県上田高等学校)の教諭 だった藤澤直枝さんに宛てた手紙で、ここには「小牧城祉記」の碑文が記されています。

 確かに、村上義清の葛尾城(坂城町)から太郎山、虚空蔵山にかけて点々と存在した村上氏の出城は、 小牧城からは一目瞭然で、村上方の動向を探るには最適な場所であったと思われます。その後、真田昌 幸が依田窪方面への攻略に際して、尾野山城へのつなぎか狼煙台としての役割があったのではないかと いう説もあるようです。

 また、『上田市誌』には「一度此公園に登らば、眼下近く千曲のC流に掉す渡しの船の風景があり、 眼を千曲河北に轉ずれば、信濃國分寺の古塔、戸石城址は指呼の間に見え。上田市街は一眸の裡に収まり、 遠く眺むれば吾妻、烏帽子、淺間の雄峰は、歴々指點すべく、遙かに東方佐久の平をも望むを得て、 眺望は絶佳である。… 中略 …優に上田市の名勝地として、他に誇るに足るべき惟ふのである。」と、 小牧城址公園の景色の素晴らしさが紹介されています。


 (1)下ノ城(本丸)

「下ノ城」から見た、上田市街地と太郎山・虚空蔵山方面


 前述の「下ノ小屋」からロープや鎖が張られた急坂を登ると、小牧の皆さんが鯉のぼりや吹き流しを 立てていた広場(「三の丸跡」と見られる場所)を経て、小牧城の本丸である「下ノ城」に着きます。 中尾城(推定)から下ノ城までの標高差は約150mです。

 このルートは「諏訪形誌を歩く」でも紹介させていただいたとおり、「男坂」と呼ばれている、かなり の難路です。気軽に踏み込むと滑落などの事故を起こす(遭難する)可能性があるので要注意です。入山 する場合には、必ず経験のある人といっしょに行動してください。短いコースですが、アルプスなどの ちょっとした山よりもよほど難しく危険なコースです。

←このような「鎖場」や「固定ロープ」があちこちにあります。


 このルートとは別に、渡部造園の脇から「下ノ城」に登ることもでき、「女坂」あるいは「大手坂」と 呼ばれています。人々が「下ノ城」に出入りするには、「男坂」を通るよりはずっと安全かつ合理的で、 こちらの方が一般的なルートだと思います。

 大手口(登山口)から、よく整備されてはいるもののかなり急な坂を登ると、「あと500m」の案内 標識のある小尾根に突き当たります。

 ここからほんの少し左(東)に入ると、小さな祠がある「大手砦」または「大手岩」と呼ばれる場所に出 ます。 (「諏訪形誌を歩く」では「無名のピーク」とされています)。この「大手砦」も上田盆地全体が 見渡せ、東側の東御や佐久方面の視野も大きく開けている、気持ちのいい場所です。「城の見張り台」と しては最適な場所ではないかと思われます。

 また、この案内標識がある場所から右(西)に向かうと、山道の傾斜は緩やかになって、まもなく「下ノ城」 のすぐ下に出ることができます。詳しくは「諏訪形誌を歩く−小牧山に登る」をご覧下さい。なお、大手坂入り 口の渡部造園敷地内にある「眞田十勇士の石像群」は一見に値します。

 「下ノ城」は長さ12m、幅10mほどの本丸跡です。すぐ東下には前述の「三の丸跡」や、石積み土居の 残址、「水の手曲輪(城の水を確保するための施設で、「井戸曲輪」とも呼ばれます)」と見られる跡も残って います。

 「下ノ城」は上田盆地全体が見わたせて、とても気持ちの良い場所です。またこの場所には、前述の小牧青年 会による「小牧城祉記」の碑が建てられています。


 (2)上ノ城
 「下ノ城」からさらに、堀切と土塁の跡を見ながら固定ロープが張られた急坂を登ると、石祠と東屋がある 「上ノ城」に着きます。前出の『長野県の中世城館跡 分布調査報告書』の城館跡一覧表によれば、「小 牧城址の所在地(旧地名)は城下村大字小牧字城山」とあり、また『長野縣町村誌 東信篇』の「小牧村」 の古跡の項にも「上ノ城」として「村の南の方、城山の山上にあり。頂上一平地、東西五間、南北六間、 高さ凡四町餘、南の方、稍高くして山に連る。堀切あり、往古の物見跡なるべし」とあります。


「上ノ城」から見た、東御市、烏帽子岳、浅間山方面

 「上ノ城」がどのような目的で作られたのかについての記録や文献は見つかりませんでしたが、「下 ノ城」を本城とすれば、この「上ノ城」は「逃げ込み城」「詰めの城」であると同時に、城の背後から の攻撃に備える「防衛ライン」であったとも考えられます。小牧城の場合、地形的に見て北側から攻め られる可能性はほとんど考えられないので、南側だけを守れば良かったのだろうと思います。

 また、ここからの眺めは目を見張るものがあり、「物見砦」としての役割も充分に果たせます。

 「上ノ城」には地域の方々の手によって東屋も建てられており、歴史に思いを巡らせながら景色を楽しみ、 ひと休みするには絶好の場所となっています。なお、中尾城(推定)から「上ノ城」までの標高差は250m 程度です。

 この「上ノ城」から急な坂(ここもかなりの急坂なので要注意です)をほんの少し登ると「尾野山」の四等 三角点に出ます。さらに、右(西)に進むと「小牧山」の頂上に立つことができます。これについては「諏 訪形誌を歩く」の「小牧山に登る」「須川から小牧山に登る」「須川地区散策」などをご参照下さい。
東屋に「小牧」のシンボルマーク(?)がありました ↑



参考文献等
長野県の中世城館跡 分布調査報告書(昭和58(1983)年刊)
信濃の山城と城館3 上田小県編 (宮坂武男 平成25(2013)年刊)
小縣郡史(大正11(1922)年刊)
上田市誌 下 (昭和15(1940)年刊)
長野縣町村誌 東信篇 (昭和11(1936)年刊)
城南公民館のあゆみ (平成 7(1995)年刊)
らんまる攻城戦記〜兵どもが夢の跡〜 (web版)